蔵持山について

祈りの山、蔵持山についてご紹介します。

九州は英彦山から北方に伸びる尾根上の

先端にある富士山型の山(標高478m)です。

豊前六峰のひとつ。


福岡県京都郡

はっきりとした歴史は平安時代からで、

開祖は「静暹」(じょうせん)という超人僧とされています。

資料によると「彦山流記(ひこさんるき)」という書物で、

とてもユニークなエピソードがありますのでご紹介します。

「その昔、飛ぶ鳥を気合いでもろとも地面に落とす験力使いの

静暹(じょうせん)という上人がいた。

上人はある時、彦山権現のお告げで鞍用山(くらもちやま)の窟(いわや)

に籠る事となり、修業中の食料を賄うため

托鉢用の鉢(はち)を持参して山籠もりをした。

鉢は修業の合間にふもとの村へ行き、飯米を乞うためのものだが、

そこは験力の上人。自ら歩き回ることなく験力で鉢を飛ばして

毎日、飯米を乞うてまわった。

ところがある日、鉢は遠出して門司関(もじがせき)まで行き、

港に停泊していた貢進船(こうしんせん)に行き船頭に飯米を乞うたが、

「お上に納める米だから」と、にべもなく断られた。

これに腹を立てた鉢は、悪態をついてぷいっと飛び去ったはいいが、

同時に船に積んであった米俵が次々に鉢を追いかけて、

みな飛んでいってしまった。

慌てた船頭は、泡を食って追いかけ、ようやく鞍用山で追いついた。

良く見ると、件(くだん)の鉢が、上人から「米を返してこい!」

とお叱りを受けている。

その様子を見た船頭は「かような験力と誠意をお持ちの上人なら、

きっと素晴らしい人助けをされるに違いない。

米は全て寄進しますから寺を建てて人々をお救いください。」

と上人に告げ、自らも上人に弟子入りした。

その後、この米を納める為の蔵を建てたことから山の名を蔵持と改め、

寺を建てて宝船寺と呼んだ。

時に承平(じょうへい)〜天慶(てんぎょう:10世紀)の頃の事である」

それ以来、修験の道場として山林修業が盛んになり、

最盛期には九六坊(住居)があったといいます。

江戸後期には十八坊に減ったものの法灯は絶えることなく

明治維新まで続いたそうです。

山中には祈りの為の施設や場所が残されることになりますが

(洞窟、仏像の安置、写経納経、入定の場、墓所)、

明治に入ってから「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)「修験道禁止令」の影響で、

全ての山伏は俗世、或いは神職に転向させられ、

修験寺院宝船寺は神社に改宗になったのです(現蔵持神社)。

更に、明治三十三年の山火事で殆どの集落を焼き尽くし、

わずかに残った文献書物も、ほぼ焼失したというから非常に残念です。

後に集落は再建されたようですが、過疎化で殆どが下山したというのです。

それでも現在でも三戸ばかりが、残っています。

私達は修験者として蔵持山の復興を願っています。

現代の世に、いま一度、蔵持の修験の法灯を灯したく考えております。

尚、山内では毎年一月、五月、八月の祭儀の為の清掃ほか、随時行っています。